人生のハードルは想像よりも低い。
こんにちは、しろです。
「1日に1回やったことないことをやろうプロジェクト」をしよう、と決めて2日経ちましたが、「やったことないことには驚きが待っている」という仮説が真実味を帯び始めているなあと思いました。
わたしが昨日やったことは2つ。(もうこの時点で1回じゃなくなってるけど、まあそれはいい)
自分の感情をさらけ出すことでリターンを得る。
1つは、どうしても「寂しい!寂しい!」という気持ちが抑えきれず、プライベートのtwitterで「寂しい!!!!誰かと話したい!!!!」と自分自身の感情をオープンにしてみたこと。
すると、普段関わりのないような友人たちまでがちょろちょろとアクションをとってくれて、「体調良いときにでもこっちにおいでよ」(地方在住者)と言ってくれたりとか、「この本読んでみるといいよ!」と自分なりのおすすめの本を教えてくれたりとか、「無理しないでね!」という言葉をかけてくれたりとか、とにかく色々な言葉で友人たちなりにわたしを支えようとしてくれました。
それがなんだか嬉しすぎてtwitterにまで投稿してしまった。
そしてめちゃくちゃ寂しかったので「寂しい!!!!!!」とプライベートのツイッターで呟いたら少しだけど反応が来て「人に生かされてる…!!!」と思って感動してる。口に出すのは大事だ。いろんな形でリターンが来るものなのね。— shiro (@shro008) 2017年6月7日
今までわたしは自分の感情をオープンにする(真のコミュニケーションをとる)ことが非常に苦手で、上辺だけで取り繕ったり愛想笑いを繰り返して「万人ウケする」態度ばかりとっていたのだけれども、感情をオープンにするだけでこんなにもリターンが来るのかと感動してしまいました。そして同時に「人のつながりで生かされてるなあ」と思って、そういえば人生は「人が生きる」とも書くけれど「人に生かされる」という書き方もするなあと思って、生きることはつまり生かされることなのだな、としみじみと感じたりしました。
この発言をするまで鬱々と「寂しい…寂しい…」となっていたのですが、オープンにしてリターンがあった瞬間になんだか寂しい気持ちさえ生きてる証拠!と思って楽しくなって、「寂しいイエエエエエエイ!寂しいのも割と悪くないな!!!!!」みたいな謎のテンションになってしまいました。寂しいのすら楽しかった。
ぶっちゃけてみると案外許される。
やってみたことのもう1つは、労働の先送りと辞退を申し出たこと。
わたしは「仕事(自分がやりたいと心を動かされること)」だけをやりたいと思いつつも「労働(「楽しくないなあ」と思いながらなんとなくやっていること)」をやっている部分が少なからずあります。いずれその比率も下げられたらと思いますが、今は契約途中のものもあるので(自分の価値観から)それらを投げっぱなしにすることができず、最低限ですがちょこちょことやっています。
その労働に対して、会社員根性が抜けずに「なんとかスピーディに!」みたいな意識を取っ払えずにいたのですが、いくつか抱えている進行中の案件の中で2つに対して「精神状態的にどうしても今すぐできない!」というものが1つ、「なんかこれほんと微塵もやりたくねえな」というのが1つあって、思い切って延期と辞退を申し込みました。(「微塵もやりたくねえ」という方に関しては本契約前だったのもあって辞退を申し込めたというのもある)
どちらも自分の感情をそのまま垂れ流して、「というわけでちょっと延期させてください」「というわけでやっぱり辞退します」的な言葉で(もうちょっと丁寧な言葉遣いで)締めたのですが、案外あっさりと「いいですよ!無理しないで!」的な言葉を投げかけてもらえて、わたしはあっさり「すべてスピーディにやらねばならない思考」から自由になることができました。
「ああ、自分でこだわってただけで、案外あっさりと許されることもあるんだな…」とわたしは暫し呆然としつつ、許してもらえたことに感謝と(その許してくれた人に対する人間的な)愛情を覚えました。そして「やってること自体は労働かもしれないけど、この人い対しては『仕事』をしたい」と思いました。
人は案外、自分をオープンにしても拒絶されない。
今までは「自分をさらけ出したら嫌われるかも」と思う部分がどこかにあって、行動を起こすことにためらいを感じたりしていました。しかしそれを取っ払って、「相手が何を思っても仕方ない!だってそこはわたしがコントロールできることじゃないし!でも自分の行動は自分でコントロールできるから!やるしかない!」と思って一歩踏み出してみたら、自分が思ってるよりも人間はそれを拒絶しないというか、柔軟だし優しいし、それに生かされることで楽しくなれたり自由になれたりするんだなとこのプロジェクトで発見しました。
人は感情をオープンにすると楽しく自由になれる。だからもっと「自分軸」を突き詰めて進んでもいい。
わたしは新たな許しを得るような感覚を覚えて、もっともっとやれることはあるなあという謎の自信まで芽生えました。
恐怖はハードルに似ているなあ、と思います。しかしその目の前のハードルを飛び越えてみたら、想像よりも違う「案外いい景色」が見えることもあって、それを知るとハードルがあまり越えられないものには見えなくなってくる。次に出てくるハードルも越えられるような気がしてくる。
人生は意外と厳しいものではないのかもしれない。そう思います。
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希望は絶大な光であり癒しだ。
こんにちは、しろです。
もともとの性格なのか、それとも心身を壊した経験があるからなのかは定かではないのですが、わたしは(原因がなくとも)突然パニックに陥ることがあります。
今日がまさにそれで、突然呼吸が苦しくなって叫びだしたくなり、動悸がバクバクとして「これは結構まじでやばいぞ」みたいな状態になり、プライベートのtwitterで苦し紛れに「動悸がやべえ、しんどい」みたいなことを婉曲的に呟いたら(数少ない)友人が心配してくれて、そしてTL上には彼女の子どものあどけない寝顔が載せられました。
それを見たらスーッと涙が落ちるのと同時に動悸もパニックも緩やかになって、「ああ、癒されるとはこういうことなのか」としみじみと感じました。
希望には人を癒す力がある。
なぜ、そんな現象が起きたのだろう?と考えたときに、「赤ちゃんには『希望』があるから癒す力があるんじゃないか」という答えにたどり着きました。
希望は一種の光だ。そして赤ん坊というのは、無限の希望=可能性に満ちている。世界がまだまだ広がっていく予感を感じさせる。
そのことにわたしは本能的なレベルで気がついて、それに癒しを感じたんだと思います。
希望を持つことで人はようやく生かされる。自分は何をしてもいい。自分は何を思ってもいい。まっさらで美しい赤ちゃんが、それを濁りきった大人に教えてくれたような気がします。
だからわたしも、一度死んで生まれ変わったような気持ちで、やりたいようにやって思うように生きていけば、なにかしらの道が開けるかもしれない。一般的な常識の枠からは外れたとしても、ある種それはオリジナリティーにつながるものになるかもしれないし(そうならないかもしれないけど)、もしかしたらそれが人生の何かを変えてくれるかもしれない。
可能性は希望だ。
かもしれない、という予測不可能な状態は、希望に満ち溢れている。人の想像力と創造力を駆り立ててくれる。それが人を生かしてくれるし、一瞬揺れたとしても自分の軸に引き戻してくれる。実際にわたしは今、未来への可能性という希望に生かされて、自分の軸に引き戻された。希望がこの世界にはある、ということを知って泣けるくらいには、わたしはまだ生きることを諦められないのだと実感しました。
そんなことを教えてくれた赤ちゃんに、今猛烈に頬ずりしたいです。
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「期待」なんて毒にしかならない。
こんにちは、しろです。
労働をしていると必ず発生する「コミュニケーション」。わたしは今、それにぶちあたっています。
わたしは接客業の経験もあるし、かつては営業をしていたこともあるので「愛想笑い」とか、「万人受する態度」をとることはできますが、それは真のコミュニケーション能力ではなく「人に振り回されることが得意」なだけに過ぎず、「それってただ精神を磨耗させているだけなのでは」と思います。
自分をさらけ出すこと=コミュニケーション
「じゃあ本当のコミュニケーションってなんだよ?」ってことになると思うんですが、本当のコミュニケーションは「惜しむことなく自分をオープンにして相手に接すること」なんじゃないかなあ、というのがここ最近考えていることで。自分がオープンに愛情を伝えれば相手にも伝わって、それが結果的に良い関係を築くことができるのだと思う。(そしてこれが相手に対する礼儀なんじゃないかとも考えてる。礼儀については前回の記事でちょっと触れてます)
「期待している」という言葉は、「利益を生み出せよ」という圧力に聞こえる。
そして今ぶち当たっているコミュニケーション(と一般的に思われているもの)なんですが、最近ありがたいことに(労働で)「期待してる」と言われることが非常に多くて。
でもわたしはこの「期待している」という言葉が非常に苦手で、昔から「いやいやちょっと待って、期待とかすんなよ」となってしまうんですね。それはなんでだろうなあ、と思ったんですが、「相手が自分に有益なものをもたらしてくれる」という思惑が透けて見えることにうんざりするんじゃないかな、と気がつきました。
わたしも人間なので人並みに承認欲求はあるし、褒められれば嬉しいし「やったぜ!」みたいな気持ちにもなりますが、そこに「期待」という言葉を乗せられてしまうと一気にプレッシャーになる(我ながら面倒だと思ってます)。なんだか「俺の(わたしの)思う通りにやってくれよ!」みたいな圧力を感じて、「いやいやわたしは出せるもん出すだけですし、そこに勝手に利益を見出そうとすんなや!」っていう気持ちになってしまうんですね…。
多分「期待してるよ」と言われて嬉しい人って、「他人軸」で生きてる人が多いんじゃないかと思う。「言われた通りにやることが正しい」と他人の価値観に判断を委ねているから、「期待」という言葉で頑張れるのだと思うのですが、(幸なのか不幸なのかはわからないけれど)わたしはそういうものに対しては「抑圧されてんなあ」と思ってげんなりしてしまいます(出る杭は打たれる的な)。
自分がやったことが結果的に相手にとって利益になるのならばハッピーだし、やったねワーイ!となるんですが、初めから利益を期待されると「うへえ」となってしまうのが正直なところです。
だからわたしはこれからもやりたいようにやるし、結果として誰かがそれで満足してくれれば嬉しいなあくらいの気持ちで(期待を無視して)黙々と労働したり(なるべく減らしたいですけど)、ブログを書いたりしていこうと思っています。
「シンプリスト」とか「シンプルライフ」とか銘打ちながらも実践系の記事よりも考え方の記事が多いのもその辺が影響してるのかな…。(書きながら気がついた)
実践系はやりたいと思ってるのでそのうちやるんですけど、「やりたい!」「やってみたぜ!」というときに思い立ったようにアップするスタイルで行きたいと思っています。
なのでもしかしたら、「チッ、なんだこのブログ、期待したのとちげーじゃねーか!」みたいに思われる人も少なからずいらっしゃるかもしれないですが、そもそも誰かの期待に応えようと思って始めたブログではないので(自分の考えや行動をさらしていって、それが結果的に誰かに届いたり役立ったりしたらハッピーだなくらいの気持ちでやっているので)、ご了承いただければ嬉しいなあと思っております。
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他人の目を気にする努力をするくらいなら今を生きる努力をしたほうがいい。
こんにちは、しろです。
突然ですが、わたしは元々物凄くネガティブなタイプで(それでもこのところ色んなものの見方が変わって大分マシになってきたのですが)、なかなか過去のことを手放せないタイプです。
無意識にそれが現れるのか、このところ突然夢見が悪くなったり、ぐっすり眠れなくて早朝に目が覚めてしまうこともしばしばです。(流石に0時に寝て4時に起きたときは「まじか!」と思った)
「どうすればいいですかね〜」と専門家の人に相談したら、「事実をありのまま受け止めるといいですよ」と言われて目から鱗が落ちました。
他人の目を気にしてるとロクなことにならない。
ネガティブな人と言うのは、基本的に他人の目を気にしているのだと思います。わたしはブログでかなり偉そうに「自分軸を持つのが大切なのでは」と言いまくっていますが(最近になってようやく「自分軸」で少しずつ物事を考えられるようにはなってきたのは本当なんですけど)やっぱりまだふとした瞬間に「他人の目」を気にしてしまう瞬間があります。
20代半ばまでという長い間「他人の目」を意識して生きてきていたので、当然と言えば当然な気もするんですけど。長年培った習慣というのは、なかなかすぐに方向転換するようにはできていない。
そもそも幼い頃から「みんな」いう言葉を押し付けられ(特に日本社会はそのような傾向が強いのでは)、周囲に気を使え〜とか、常識が〜とか足並みを揃えろ〜とかいう言葉が氾濫しているので、まあ無理もない話ですが。
周囲に対する礼儀が大切なのは否定しないし、礼儀を知っているからこそ物事がスムーズに進んで結果的に世界の選択肢が広がるということが往々にしてあるので、最低限の礼儀は身につけていて損がないのは事実だと思う。
でもこの「礼儀」というのは、あくまで「好きな人にたいして、ありったけの愛情表現をする」(陳腐な言い回しになるけど)ことであり、過剰に自分を卑下したり、心を閉ざして愛想笑いしたり、欲求を閉じ込めたりするということとはまた別物なのではないかな…と、最近になって考えるようになりました。「この人はどう思うかな?」「こんなことを言って嫌われないかな?」ということばかり考えるようになると、結局人の目に依存した行動をするようになるし、周囲に振り回されて自分がすり減ってなくなっていくので、結果としてロクなことにはならない。これはわたしの実体験からもそう思います。
必要なのは抑圧じゃなくて開放なのだと思う。
元々を辿ると本当に小さな頃は「やりたいように」生きてきたはず。その時は毎日が楽しくて毎日がきらめいて、世界がどんどん広がるような気分になってワクワクしていた。
それが周囲の抑圧によってなりを潜めるようになって、結果「自分の好きなものがわからない…」「やりたいことってなんだろう…」と鬱々となって、心身を壊すことになりかねない(わたしはなりました)。そして最悪の場合は「生きてる意味なんてない」と死を選ぶ人もいるのだと思う。日本の自殺者は延々と増え続けているから、これはあながち間違っていないんじゃないかな。
そんな状況を打破するには、冒頭の通り事実をありのまま受け止めることが大切なのだと思う。例えば、人と向かい合って話している。自分が何を話そうとも、自分の言葉で相手の感情をコントロールすることはできない。人の感情は人の数だけあるから。その事実を受け止めるだけで、随分と気の持ちようが変わってくるんじゃないでしょうか。
そこで「あなたはそう思うのね、その価値観は受け止める。でもわたしはこう思う。わたしの価値観はこれだから」と「自分軸」で考えられるようになると、人と向き合って精神を磨耗する確率はかなり低くなる。自分の価値観も相手の価値観も受け止めて開放できるようになれば、物事はもっともっとスムーズに進むと思う。「自分の方が正しい」と価値観の押し付けが生まれるから、物事がこじれて抑圧が生まれる。
ありのままがダメなんてことはない。
抑圧と言えば、わたしは幼い頃(多分4歳くらいだと思う)、突然(本当に何の脈絡もなかった)「嫌い」と言われたことがあります。今思うと身に覚えがなさすぎて「なんのこっちゃ!」となるのですが、もう25年近く経つのに未だに覚えているのは、多分その時初めて「嫌いだ」と言われたことで自分の行動が制限されるようになった(抑圧された)からだと思います。「ありのままじゃダメなんだ」と思って、「嫌われないように」愛想笑いをする日々が始まるようになりました。
そのことを最近になって思い出して、事実だけを受け止めることにしました。「嫌いだ」と言われたのは、その子の価値観がわたしの価値観と一致してなかったから。ただそれだけなんです。ただそれだけのことなのに、わたしはなぜか「嫌われるのはいけないことだ」と思い込んで、自分を開放するのをやめてしまいました。それが大人になっても影響して、色々なことの奥底にそれが燻っていたような気がする。わたしが心身を壊したのはそのことが直接の結果じゃないけれど、わたしが今まで選択していたことの根源にはその出来事(というよりも、その出来事を通して「嫌われちゃいけない」と思ったこと)の影響がないとは言い切れない。
つらつら書きましたが、別に自分のことを「嫌い」と言い放った人を恨んでいるわけでも、「全部お前のせいだ!」と思っているわけでもありません。乱暴に言えば心底どうでもいいと思っています。それは多分、自分が「自分軸」で物事を考えられるようになってきたからではないかと思う。自分の考えは自分の考えでいいし、相手の考えは相手の考えでいい。どうせ人なんてコントロールできないんだから、自分は自分の思った通りに、やりたいようにやればいい。雑にまとめると「ありのまま」で生きていったって別に良い。ダメなんてことはない。それで誰が何を思おうと、それはその人の勝手なのだから、自分の領域ではない。自分の領域でないことに振り回されても仕方がない。それにもう少し早く気づいておけばよかったなーというだけです。
明日死ぬなら、今何をすべきか。
何事に於いても、他人に振り回されるって、1番身にならない時間の使い方だと思います。自分の時間はあくまでも自分だけのもので、しかも時間は有限です。お金は増やすことができるけど、時間は溜め込んだり増やすことができない。それだったらわたしは自分の時間を全部自分のために使いたい。明日死んでも後悔しないように「今持ってる時間」を使うことができれば、人生の充実度というか幸福感は桁違いになるんじゃないかな。
「自分軸」は自分の一生のテーマになりそうです。そう思うとなんだかワクワクしちゃうな!「自分軸」で考えると掘り下げられることがたくさんありそうです。
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「1日に1度やったことないことをやろうプロジェクト」始動。
こんにちは、しろです。
ここのところ、モノも(まだ改善の余地はありつつ)だいぶ減らしてきたし、(課題はまだありつつも)「労働」の見直しを進めていたりしているのですが、「何かが足りないなー」とぼんやり思っていました。
そうだ、やってないこと、やってみよう。
…元ネタより大分ゴロが悪いのは見逃していただきたいのですが(笑)、要は自分に足りないのは「刺激」じゃないのかな?と。しかもどうせならとびきりフレッシュな刺激が欲しい。
そういったものは、過去にやったことがあることを繰り返すのではあまり意味がありません。今まで体験したことがなかったことをやってみることで、漸く世界が広がるのだと思います。狭い枠の中をぐるぐるしてても景色なんて微塵も変わらないのと同じ。
「1日に1度やったことないことをやろうプロジェクト」で世界を広げる。
プロジェクト名長いな!というのはさておき、こういう「自分プロジェクト」的なものを立ち上げてみることでワクワク感も増しますし、取り入れていこうという気にもなるもの。
些細な部分でも、やったことないことをやってみると意外な発見があるかもしれないし、それが思った以上に自分に有益な情報をもたらしてくれるかもしれない。
そうやって日々自分を更新していくことこそ、人生を満喫するコツなのかな、と。
ちなみに今日わたしが取り組んだことは「1日4件のスポットをはしごする」でした。「ちっちゃ!」と思われるかもしれませんが、わたしは基本的に体力がなく1日1つの用事で結構体力を持ってかれるので、割と勇気を出して取り組んだことだったりします。
ちなみに結果は…疲れました(笑)
でも「意外とやろうと思えばやれるもんだな!」と思ったし、結構自分の体力を過小評価してたかも?ということに気がつけたりして。今までは「用事って結構体力持ってかれるから、1日1つで良いよな…あんまり予定をブッキングさせんとこう…」と消極的だったんですが、一見疲れたように思えてもピークを超えるとサクサク動けるようになったりして。「ああ、今まで全然体力ないと思ってたけど、割といろんなところ行けるじゃん!」と小さな自信にもなったし、ペース配分なんかも考えられるようになったし、「じゃあ次はあれとあれをやってみても良いかな?」と次に挑戦することのアイディアが生まれてきたりします。
こうやって小さなことでもちょこちょこ変えていくだけで、世界の見方って大きく変わるもんなんじゃないかなと思って。少しずつですが、やって行こうかと思っています。
今後の「1日1度やったことないことをやろうプロジェクト」は。
まだまだ「殻を破った!」というところまでは行けてないのですが、これから色々やってみたいことは山ほどあります。「朝から遠方に行ってぼんやりと1日海を眺める」とか。あとは「ひたすら1日ブログ書いてみる!」とかもやってみたいですね。
でも1人でやるには限度があることもあるので、そのうち周囲を巻き込んで何かできたらなあと思うのですが…。「労働」をもっともっと見直せば余白もできるし、その隙間に色んな人と会ったり色んな出来事に挑戦する機会を設けてみても良さそう。フリーだから自分のやりよう次第でいくらでも時間の調整が効きますしね。
「1日に1度やったことないことをやろうプロジェクト」で、自分がどのように変わっていくか楽しみです。ブログなりツイッターなりでちょこちょこその様子も出していけたらいいなあ。
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「労働」より「仕事」に時間を割くと豊かになる。
「労働」を減らすことが、人生の満足度を上げる。
「忙しい」は、思い込み。
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体と心は必要なものを全部知っている。
こんにちは、しろです。
物凄く乱暴な言い方になるのですが(知らず知らずのうちにブログは敬語で書いているのでわかりにくいかとは思うのですが、わたしは元々ヤンキーが多い地方の出身でして、普段の言葉遣いは乱れまくりを極めております。アラサーとして如何なものかと思うのですが、もう10年以上言葉遣いが直らないので、というか直す必要性もあんまりないので放置してます)、朝から「めっちゃ眠てえな」と思っていました。
しかし労働(「仕事」じゃないところがポイント。労働=自分の時間を切り売りすることで対価を得ていて、特別やりたいと思っていないこと という意味合いで使っています。これを今後どうやって減らして「仕事(=やりたい!と思って突き動かされること、これで結果的に報酬をなんらかの形で得られたらハッピー。報酬はどんな形でも良い)」だけに打ち込むことができるか、ということを今後の課題にしています)分の納期が刻々と迫っており(クライアントさんは優しいので「都合悪くなってしまったら調整しますよ〜」と言ってくださるのだけれど、会社員根性が抜けてなくて何が何でもさっさと終えたい)、コーヒーをガブ飲みしながら「カフェイン最高!」と若干ハイになりながら、黙々と続けていたのですが、「眠てえ!まじ眠てえ!」という状態から抜け出すことができず、わたしは思い切ることにしました。
「よし、寝よう。」
2秒くらいで眠りに落ちました。カフェインとは一体。
寝たら驚くくらいスッキリした。
たった1時間くらいしか寝てないんですけど、起きた瞬間からやる気と言葉が溢れてたまらなくなっていて、衝動的にパソコンを開いてブログを書くことにしました。こうして思いついたことを言葉に落とし込んでいかないと、脳みその中で言葉が暴れ出して止まらないような気がして。
そして結果的に目もめちゃくちゃ冴えて、「よし!この後は労働だな!やってやんよ!」という気持ちになりました。欲求に従うって凄い。無理はするもんじゃない。
体と心は必要なものを全部知っている。
体も心も、「今、自分に必要なもの」をちゃんとわかってサインを出しているものなんですね…。わたしが明らかに足りていなかったのは睡眠で(よく考えたらこのところ、悪夢にうなされるわ夜中に目が醒めるわ寝つきが悪いわの三重苦でした。昨日が特にそう)、それを思い切って解消することで、「求めているもの」が消化され、感覚を取り戻してくれたんだと思います。
無理矢理ほかのもの(今回の例であげるとカフェイン)で抑えつけたところで、体と心は「欲しい!欲しい!」と騒ぎ立てるのだから、どうにか手を打ってとっとと与えてしまったほうがよほど効率が上がるというもの。人生には時には思い切りと欲求に素直に従う覚悟が必要なんだなあと、しみじみと実感しました。たかが睡眠、されど睡眠。
もちろん、SOSを出される前に先手を打って解消しておくのが1番良いのですけれどもね。この悪夢や中途半端な睡眠も何かしらのSOSであることは明確なので、どうにかして原因を探り当てて対処していきたいものです。
ここまで書いたら脳内で暴れる言葉もだいぶスッキリしました。やっぱり欲望のままに吐き出すのが1番ですね。気分は晴れわたる青空の如しです。もう夕方だけど!