Shimple.

やりたいようにやるために、できる限りシンプルに生きたい。

「伝え方」を、人はもっと大切にするべきだと思う。

こんにちは、しろです。

 

最近強く思うこと。 

 

 

数日前のわたしのツイート。これ、すごく印象に残ったんです。と同時に、めちゃくちゃ考えさせられました。

 

言葉というのは凶器にも守りにもなる。

言葉の力というものは人が思っているよりもずっと強力なものなのではないか、というのをこの広告でしみじみと感じた。(そして肝心の何のアルバイト情報誌のコピーかは覚えていない)

 

実際、言霊という言葉があります。霊、と入っているだけでとんでもなくスピリチュアルな匂いがぷんぷんするのだけれども、霊的なもの云々というよりももっと単純なものなのではないかと思う。すごくシンプルに言えば、言葉というものは「武装」にものすごく近いような気がする。何に対する武装かというと、「感情」ひいては「自分自身」に対するものなのではないかな。

 

例えばツイートの中にある「お前のためを思って言ってるんだ!」という言葉は「怒り」という自分の感情を守っている部分があるんじゃないかと思う。一見して相手のことを思い遣っている風でありながらも、「怒り」を明らかに孕んでいて、その「怒り」を正当に(見えるように)ぶつけるクッション的な役割を果たしているのが「言葉」なのではないか、という具合。少しわかりづらいですかね。そこはフィーリングでカバーしてもらえると嬉しいです(雑か)

 

そしてこの言葉はクッションという「守り」であると同時に、人を確実に傷つける「凶器」でもある。しつこく「お前のためを思って言っているんだ!」という言葉を例に出すのだけれども、わたしはメンタルが絹ごし豆腐の如し(下手したらおぼろ豆腐)なので、こういう強目の言葉をかけられるだけで結構ボロボロというか、まともにダメージを食らってしまう。

 

そういう意味で「言葉選び」というのは非常に重要だと思う。「誤解をさせない言葉」というのを選ぶのは非常に難しいことなのだけれども、冷静に「どうしてそう思ったか」「なぜそのような気持ちを伝えたいと思ったのか」、この2点を強く意識して伝えようとするだけでも状況はかなり改善されるわけで、感情を乗せて不用意にぽんっと言葉を出してしまうのは非常に危険なことなのではないかなと。(それやる人、実際すげー多いですよね。まあ、わたしも完璧にできるかっていうとできないっす)

 

どうせ使うなら「手を差し伸べる」言葉を。

またまたしつこく「お前のためを思って言っているんだ!」の言葉を例に出すんですけれど、これも「怒り」という感情を一度沈下させて、「どうしてそう思ったのか」「なぜそのような気持ちを伝えたいと思ったのか」ということから紐解いてもう少し適切に言葉を組み立ててみると、まずは相手に「こういうことがあるとこういう理由で困っちゃうんだ」ということを伝えるべきなのではないかと思う。その上で、「何かわからないことや困ってることがあるなら助けるよ」と手を差し伸べるようにすれば、頭ごなしに叱りつけるよりもずっと物事がスムーズに運ぶし、互いの理解を得られる可能性が高くなるのではないかしら。

 

ここまで書いて思ったけれど、伝える言葉が強くなるのは「感情を正当化させる」という側面のほかに、「自分が拒絶されたときの予防線」という側面もあるのかな。万が一手を差し伸べたときに拒絶されるのが怖い。だから一方的に言葉を差し出してしまう(そしてその拒絶の恐怖が強ければ強いほどに言葉も強くなるのかもしれない)

 

そう考えると、「言葉選び」と同時に「勇気」も結構大切なのかもしれない、なんていう風に思ったりもする。いやはや、人間ってすっごい難しいですね。

 

 

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【感想】「無知の知」を心に。湊かなえの「リバース」を読んで強く思ったこと。

こんにちは、しろです。

 

なんだか梅雨で体が重く、動けない日々が続いていました…。(仕事はしてましたが)

 

そんな中でもなんとか読書だけはこなし、最近衝撃的だった本をご紹介します。

 

湊かなえ先生の「リバース」です。

 

 原作のドラマも好評でしたね〜。と言ってもわたしは途中までしか観ていなくて、中盤くらいから録画したまま放置してますが。(「原作読み終わったら観よう!」と思っていたので、やっと観られる…!)

 

(この「リバース」、文庫版とかハードカバーで色々な表紙があるようですが、個人的にはこの「コーヒー豆が崩れていく」感じの表紙が1番話を象徴している気がして好きです)

 

以下、ラストのネタバレが含まれますので未読の方はご注意ください。

 

続きを読む

「労働」に疲弊した体は、「リセット」しないと保てなくなるよ。

こんにちは、しろです。

 

この数日は締め切りに追われ、ひたすら労働に労働を重ねていました…。(正確にはまだ終わってないのですが、漸く目処が立ちました)

 

労働は人を疲弊させる。

(わたしの思う)「労働」の定義については、過去記事でも触れているのですが。

shr0805.hatenablog.com

 

少なくともわたしの中で、「労働」は「やりたくないことや会いたくない人に時間を割く」ことだと思っています。しかし現状は、まだ「やりたいこと=仕事」1本でどうこうなる状態ではないため、少なからず労働が発生しています。(大変不本意ですが。少しずつでも改良したい…)

 

それがなんだか積み重なりに積み重なってしまい、「労働」を終えるとぐったりしてしまう…ということを延々と繰り返していました。もともと不安神経症を患っていることもあり、まだまだ本調子じゃないのかもしれない。(これが多分「仕事」1本になったら少しは緩和されるんだろうなあ、という予感はしている)

 

もともと不安神経症を患った理由が「労働」だったので、このままじゃいかんなあとは薄ぼんやりと思ってはいます。

 

「労働」の疲労をリセットするには。

とは言え、(現状では)「労働」が欠かせなくなってしまっているので、対症療法としては「疲労」をどうにかするほかない。

 

「労働の疲労」というのは、言い換えてしまえば所謂「ストレス」に該当すると思う。そのストレスを解消できないと、人はどんどん疲弊してしまう。(少なくともわたしはそう)

 

そのストレスを解消するには、「やりたい」と思うことをやることが1番良いのだろう、という結論に達しました。

 

というのも、わたしはこの数日、とにかく眠くて仕方がなかった。体が「横になりたい!!!!!!!寝かせて!!!!!!!頼むぜ!!!!!!」とめちゃくちゃ言うものだから、とにかくひたすら横になって眠る日々。少々自分で「過眠症なのでは?」と疑うレベルで寝てた。(よく考えたらわたしはストレスはいつも寝ることで解消していた…。受験勉強をしていたときも、勉強→寝る→ご飯食べる→寝る→勉強→寝る→ご飯…みたいなサイクルだった。非常に素直な体である)

 

そうすると自然と体がリセットされて、「よし!やるか!」みたいな気力が舞い戻ってくる。それでなんとか漸く体にムチを打って労働をすることができた、みたいな感じだった。

 

この「リセット方法」は結構その時々によって違って(気力と比例するのだと思う)、こうしてブログなんかでアウトプットすることでストレスが解消されることもあれば(この段階だとまだまだ軽い方)、外に出ることで解消されることもあるし(これは中度くらい)、寝ることでしかリセットができないときもある(これは重症。個人的な体感だけど)

 

とにかく、そのとき体が訴えていることをやる、というのが1番のストレス解消法になるのではないかなあ、というのが、ここ数日のわたしの発見です。

 

まだまだ労働を抱えているので、ストレスを適宜発散しつつやるぞー!と思いながらも、早く「仕事」1本でどうにかしたいなあ…と思う次第。自由に文章を書ける仕事とかが1番やりたいんですけどね。あちこち種をばら撒きつつ、コツコツとやっていくことにします。

 

 

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人に振り回されないためにも、「言葉」を大切にしたい。

こんにちは、しろです。

 

「自分の人生の転機を振り返ることが多い」と、前回のブログで触れました。

 

shr0805.hatenablog.com

 

今日はさらにそこに突っ込むというか、掘り下げてみました。

 

人は人に振り回されることによって追い込まれる。

そもそもわたしがここまで自分を追い込むようになったのは、何が原因なんだろう?という話です。

 

そう考えた時に思い立ったのが、幼少期に受けた「否定」の言葉でした。

 

わたしが今覚えている中で1番古い記憶は4歳くらいのときのもので、特に強く残っているものが2つあります。

 

1つは、砂浜で遊んでいたら突然(本当に突然。脈絡もなく)、幼稚園の同じクラスの女の子に、真っ正面切って「嫌い」と言われたこと。

 

正直に言って、嫌いと言われる理由も全く思い当たらなかったし、今でも微塵も思い当たりません。その子と別段付き合いがあったわけでもないし(そもそも当時のわたしに女の子の友達は1人しかいなかったし、幼稚園のアルバムを見ても毎回同じ子しか写ってない)、当時のわたしの友達はほとんど男の子で、それに付き合って山猿の如く山を駆け回っているか、(泳げもしないのに)海に突入するか、そうでもなければ画用紙にひたすら絵を描いているような子どもだった。世界は非常に狭く、決まった子としか交流がなかったため、ほとんど見ず知らずみたいな子に「嫌い」と言われるような交流の仕方はしてなかったんじゃないかと思う。

 

彼女がどうしてわたしのことを「嫌い」だと思ったのかはわからない。なぜならその子は、「嫌い」と言い放ったら満足そうな顔をして、その場を立ち去ってしまったから。そこまでは鮮明に覚えている。

 

何が彼女を突き動かしたのかはわからない。気が付かないうちに何かが彼女の逆鱗に触れたのかもしれないし、単純に覚えたての言葉を誰かに言いたかったくて、手頃な場所にいたわたしにぶつけてみただけなのかもしれない。それは今となってはわたしに確かめる術もないし(名前も覚えてないし、彼女がどこにいるのかもわからないし、そもそも彼女はそんなエピソードなど覚えていないだろうから)、特に知りたいとも思わない。だから、真意は当時の彼女にしかわからない。

 

でもその生まれて初めての「否定」に、知らないうちにわたしがとらわれていたのは確かだ。だって20年以上たった今でも、鮮明に覚えているくらいなのだから。

 

もう1つの記憶は、食事時に父親に「お前はいらない子だ」と言われたこと。多分何かの粗相をしたのだと思う。父親は単純に叱っただけのつもりだったのだと思う。でも当時のわたしはひどくショックを受けて、それ以上食事を続けられず、部屋の和式トイレ(これは直接話に関係ないけど、当時めちゃくちゃ古いアパートに住んでいた)に閉じこもって、「お父さんはわたしのこと嫌いなんだ、だからいらない子なんだ、わたしはこの家にいちゃいけない子なんだ」とわんわん泣いたことは覚えている。

 

それから20年近く経ってからわかったことなのだけれども、父親は仕事にかまけて第一子(姉)の子育てに関わることができなかったことを非常に悔いていたらしい。だからわたしのときは積極的に育児に関わろうと決めたそうなのだけれども、意気込みすぎたのともともと言葉選びがきついタイプの人なので、結果的に「叱る」という部分が斜め上すぎる方向にブッ飛んでいってしまったのではないだろうか(と思う)。

 

だからある種、その言葉の裏に隠されているのは父親の愛情だったのだと思う。「少しでも良い子に育つように」「世間様に認めてもらって、幸せな子になれるように」という思いから来るものだったのだろう。実際に母親に言わせれば、夜泣きのときは母親よりも前に起きたり、自ら外に遊びに連れて行ったりして積極的に面倒を見ていて、わたしは父親に大層可愛がられているように見えたらしい。(このことから、父親が積極的に育児に関わろうとしていたことが事実であることを裏付けられているし、父親は叱るときの言葉選びを間違えただけだということがわかる)

 

それでもわたしには(砂浜の事件のこともあって)その「いらない子」という言葉だけが突き刺さってしまったし、父親の真意を知った今でも、どこかで父親に対して「またとんでもない言葉が飛び出してくるのでは」と怯えている部分がある(アラサーにして情けないこととは思うけれど)。

 

そしてその2つの記憶と言葉は、確実に今のわたしを形成していると思う。言葉は怖い。人を簡単にコントロールする力を持っているから。

 

実際わたしはこの2つの言葉によって、「嫌われないように」「完璧にあらねば」という思いを抱くとになってしまった。そしてその思いは、わたしの人生の大半を占めていた。思えば作り笑いを浮かべるようになったり、思うように行動しなくなったり、本音を言わないようになったのはその後からだ。

 

正面切って「嫌い」と言われることはなくなっても、なんとなく人と深く付き合わえなくなった。仲良くしたい子に「仲良くしよう」の一言も言えなかったし、遊びたいなと思った子に「遊ぼう」の一言も言えなかった。いつももじもじしているような子になってしまった。子どもができる処世術なんて所詮そんなものなんだけれども、周りからしてみれば気味が悪かっただろうなと思う。(実際、なんやかんやあってなんとか本音を言えるようになった友人ができたものの、当時を知っているその友人からは「なんか何考えてんのかよくわかんなかった」と言われた)

 

そしてその気味の悪さは、大人になってからもどこか引きずり続けていた。

 

自分で自分の理想を作り上げてしまい、わたしは「親の思う通りに生きなければ」「周囲の期待に応えなければ」という気持ちばかり育ててしまうようになった。「いい大学に入れば周りに認めてもらえる」(卒業した大学を選んだ理由は「自分の得意学科で攻めればイケる!」と思ったのもあるけれども、そこそこ有名な私大だったという点も非常に大きい)、「正社員になれば親にとやかく言われないで済む」(姉が正社員になることなく派遣や契約社員で過ごしていたこともあり、それを不満に思っていた父親からわたしは「正社員になるのが一番(できれば公務員になってほしい)」と延々と言われ続けていた)、「周りが求めているキャラクターになれば嫌われずに済む」(わたしは元来ひょうきんなタイプではないのだけれど、ひょうきんなキャラクターを求められ、外内部問わない欠点を指摘されても「あはは〜」と受け流し、なおかつ自虐を重ねて笑いに昇華するというキャラクターを築き上げ、さらに傷つくことを言われるという悪循環を積み重ねていた)というのがそこから派生した思考および行動で、今思うといかに他人の軸に振り回されていたかがよくわかる。人は人に振り回されることで、自分自身を追い込んでしまうということがよくわかるエピソードだと(我ながら)思う。

 

しかしこれは非常に危険なことだ。前回の記事で触れた通り、わたしはこの思考に苛まれることによって「就職」という人生にとっても大きな転機で選択を誤り、心身を壊してしまったのだから。

 

他人に振り回されることほど無意味なことはない。

事実の裏に隠されている感情は、所詮人に推し量ることはできない。その人の感情はその人だけのもので、ほかの人が介在する余地などないのだと思う。

 

だから結局、他人に振り回されるのは無意味なんだと思う。そのことに気がつくまでに、やけに長い時間を要してしまった。(それでも結果的には気がつくことができたのでよかったと思うことにしてる)

 

自分は自分の軸を持って、「良い」「好きだ」と思う方向に進むだけ。結局それしかできないんじゃないかな。だからわたしは、もう他人に振り回されないように、そうやって生きていきたいなあと強く思う。

 

人の「自分軸」も受け入れたい。そのために「言葉の強さ」も考えたい。

同時に、「言葉」というものの強さも自覚していないといけないな、と思う。「伝える」という手段がある以上、自分の感情を適切に言葉にする義務が人間にはあるはず。(でも結局真に自分の気持ちを理解できているのは自分だけなのだとも思うので、あくまで「伝えるために1番近い言葉を選ぶ」努力をしたほうがいい、というまでに留まるけれど)

 

ここでこの「言葉」を適切に伝えないと、周囲を振り回す結果になってしまう。誰しもが言葉によって被害者にも加害者にもなりえるということを、決して忘れてはいけないと思う。

 

もしかしたら誤解されているかもしれないけれど、「自分の軸を持って生きる」ということは、必ずしも「孤独に生きる」ということとイコールではなく、「人と共存している」ということが前提で、「他人との価値観の違いをも受け入れ、それでも自分の思いを貫き通す意志を持ちたい」ということです。人は結局、一人で生きることはできないのだから。

 

だからこそより強く、「言葉」の重要性を思う。相手には相手の「自分軸」があって、それを尊重したい。そのためにも、自分が言葉によって相手を振り回す「加害者」にならないように注意を配りたいと思っています。これは「思いやり」とか「親しき仲にも礼儀あり」という考え方に近いかな。わたしはこれを断然支持したい。

 

人の感情や言葉というのは、本当に難しいものですね。どちらにせよ、使い方を誤らないようにしたいものだなあと思います。言葉や感情は決して鋭いナイフなだけでなく、人を良いように揺り動かすものでもあるわけですからね。

 

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自分の人生の転機から考える。「好き」は生きるための最大のエネルギーだ。

こんにちは、しろです。

 

ここのところ、「自分の人生の転機」を振り返る機会が多くありました。(体調が良くなくて仕事が思うように進まず、寝込む時間が多かったというのもあって、思考の波が止められなかった)

 

わたしの人生の転機は、大きく分けて2つ。

それはプラスのものと、マイナスのもの。

 

プラスの転機は、迷うことなく「大学受験」だと思います。(大学受験については、過去記事で触れています)

 

shr0805.hatenablog.com

 

大学受験を通じて、わたしは「好き」を「徹底的にやり抜く」ことが、やりたいことをやる1番の近道であることを学びました。

 

マイナスの転機は、「就職」による「精神不安」でした。

 

過去にも軽く触れていますが、わたしは自分に合わない仕事に就いたことで(とは言え、これは会社責任でなく自己責任の部分が非常に大きく、「自己分析が非常に間違っていたこと」と「常識に捕われすぎて結論を焦りすぎ、判断力が鈍っていたこと」が最大の理由だと思う)、心身を壊しました。

 

具体的には、心の部分で言うと「怒りっぽく涙もろく」なった。ストレスの捌け口が見つからず、感情的になることも多かった。そんなわたしからは当然人も離れていきました。友人たちに寄りかかって生きていたわたしは、支えを失って空っぽになり(自業自得ですが)、何事にも楽しみを見出せず、好きだったはずのものもどんどん興味を失って、生きている意味をなくしていきました。

 

さらに、元の持病(これもストレスが原因という説があるけれど、まだ正確な原因は解明されていません)からくるだるさに加え、毎日の胃痛と吐き気による食欲不振で痩せ細り、頭痛と肩こりに悩まされ、職場には行くものの仕事に集中できなくなって仕事でありえないミスを連発し、そのことがストレスとなってさらに状況は悪化する…ということを繰り返していました。

 

次第に「すべてわたしが生きているからいけない」「周囲が期待するように物事をこなせない自分が情けない」ということがぐるぐると頭を回って離れなくなり、毎日「どうしたら楽に死ねるか」を考えるようになりました。仕事中でも涙は止まらず(突然ポロポロと泣き出す始末)、最終的には倒れ、救急車で運ばれる事態にまで発展しました。

 

周りに心配と迷惑をかけた結果担ぎ込まれた心療内科で下された診断は、「不安神経症」および「重度の抑うつ状態」。このままでは会社に迷惑をかけるだけでなく、「本当に死んでしまいかねない」と思い、「体調不良で続けられない」という理由で会社を去る決意をしました。業務内容に違和感こそあれ、会社には何の責任もない分申し訳なくて仕方なくて、そのことでも暫く頭を悩ませました。

 

会社では無理矢理明るく振る舞うようにしていたので、「体調不良」という理由に疑念を抱いた人も多かったと思う。実際、影でこっそり「元気そうに見えるのに、なんで?納得できない」と同僚が言っているのを聞いてしまったこともある。それでももう、全てが限界でした。今思えば、この「無理矢理明るく振る舞う」も、抑うつ状態を助長していたような気がする。

 

会社を離れたことで少しずつ快方に向かってはいるものの(なんとか「興味がある」ものを思い出し、結果としてそれを徐々に今の仕事につなげられるようになってきたので)、今でも完治したとは到底言えません。

 

相変わらず持病は治らないし(そもそも、再発率が高いこともあって「根治」は難しいという説もある)、「死ぬこと」は考えなくなってきたけど、「好き」のアンテナはまだまだ昔ほどの鋭さを発揮できていないし、不安神経症もお世辞にも「治った」という域には到達できていない(実際まだ寝込むことが多いし、定期的に通院もしてる)。

 

でも、その状態にならなければわからなかったことがある。

それは、いかに「好き」という気持ちがエネルギーになるかということ。このことは、抑うつ状態や不安神経症にならなかったら気がつけなかったと思います。

 

「好き」から来るエネルギーは膨大だ。それだけで生きている活力が湧いてくる。反対に、無理に感情を抑え込めば抑え込むほど、状況は悪化していって、生きる気力を失っていく。これも病気にならなければわからなかったことです。

 

発想の転換ですが、このマイナスの転機も、わたしにとってはなくてはならない重要な出来事だったかも。そう考えると、「会社に就職する」(合わない業務を経験する)ということは、わたしに必要なことだったのかもなあ、と思います。

 

でも、本当にひどく苦しい思いをしたし、(わたしは踏みとどまったものの)もしかしたらそれで命を落としてしまうという選択肢を選ぶ人も出てきてしまうかもしれない。というか、実際にいますよね。精神的な病から来る自殺は3万人以上いると言われています。このデータは古いものだったので、今はもしかしたらもっと多いかもしれないし、周りが知らなかっただけで実は原因がなんらかの精神的な病だった、という人もいるかもしれない。

 

そんな人がもう増えないように。わたしは「好き」をいろんな人がもっと感じられる時代になればいいなあ、と心から思うし、なんらかの形(例えば、こういうブログ)でそれを広めていけたらいいなあと思う。

 

その「好き」を知るための有効な手段の1つが「シンプリストとして生きる」ことなんじゃないかな、と思っています。わたしの中で、シンプリストこそ「『好き』を集めて生きている人」なんじゃないかと思う。不要なモノや考えや部分を削ぎ落として、残るのは自分が「良い」と思った考えや、「好き」と思えるものだけ。イコール、「自分軸」が確立している人。

 

そういう人が増えることで、もっと世の中は豊かになってくるんじゃないかな。

 

まだまだ「好き」のアンテナを磨いている最中のわたしが言うのも烏滸がましい話だとは思うのですがね。でもそういう状態だからこそ、今つらい人のために「こんなんあったよ!わたしこれで結構いい感じだけどどう?」と差し出すことに説得力が増してくると思うし、寄り添うことができるんじゃないかな、なんて淡い考えを抱いている次第です。

 

拙いブログではありますが、すこしでも誰かの「好き」を見つける手伝いができたらいいなあと思います。

 

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自由に生きるための新しい選択肢。ワーケーションが気になる。

こんにちは、しろです。

 

ワーケーションという働き方をJALが始めるとのことで、少し気になっています。

参考リンク:ワーク+バケーション=ワーケーション 旅行先で仕事、出勤扱い 来月から新制度(毎日新聞)

 

働き方が多様になっている。

本当に近年の働き方は変わってきたなあ、と思います。従来はオフィスにこもって、ひたすら与えられた仕事をする…というのが「仕事」だったんですよね。

 

わたしもそうした労働の仕方を経験してきましたが(内勤だったので、なおさら外に出る機会もなく…)、結構息がしづらい毎日でした。

 

向いている人もいるんだろうけれど、少なくともわたしは向いてなかったなあ。結局体も心もボロボロになっちゃったし。

 

でも、こういった働き方が認められてくると、そういった人も少なくなるんだろうなあと思います。縛られない仕事の仕方がこれからもっと広まっていけば、今まで「働く」ということが難しかったり、どこか違和感を覚えていた人たちも、「労働」でなく「仕事」ができるようになるかもしれない、と思います。

 

こういった取り組みが、もっともっと広まるといいなあ。いずれは「当たり前」になるといいですね。

 

「労働」は「仕事」じゃない。

「労働」とは?「仕事」とは?については、過去記事でも少し触れています。

 

shr0805.hatenablog.com

 

 

「労働」=「やりたくないこと」を我慢している人はたくさんいます。もちろん誰か何かやらなくては世界は回らないと思う。何かをしている人がいるから自分が生かされているということもよくわかっています。

 

でも、それでも誰しも「向いている」ことがあるはず。心から「好きだ」と思える何かがあって、それを「仕事」にすることができるはず、とわたしは思いたい。

 

1つの仕事でも、すごく細かく分解していくと、誰かの「好き」につながる部分があるんじゃないかなあ、と考えています。それが高じさせることによって「仕事」になるんじゃないかな。そう思うと、すべての出来事に本来は「労働」なんて存在しないのかも。

 

誰にでも「天職」はある。

例えば、「3K」なんてものがありますよね。「汚い」、「きつい」、「危険」の3つの要素のことを指す言葉なんだそうです。(今ではもっと色々なバリエーションが生まれつつあるようですが…)

 

この「汚い」だって、例えば(「汚い」を単純に「汚れ」という意味で捉えるのならば)、掃除好きの人にとっては天職かもしれないし、「きつい」は追い込まれれば追い込まれるほど力を発揮する人にとっては求めている場所なのかもしれない。「危険」は…それでも命をかけたいほどやりたい仕事であれば、それで良いという人だっているかもしれない。

 

そう考えていけば、誰しも「好き」なことと「仕事」をつなげる権利はあるよなあ、と。

 

その一歩として、この「ワーケーション」という取り組みが広まっていくことを願っています。わたしはやろうと思えばワーケーションができるので(今はフリーなので!)、好きな土地でしばらくのんびりしながら仕事をする、というやり方もありだな〜。

 

多分これを導入にあたって企業としては課題も色々あると思いますけどね。1番懸念されるのは「仕事と遊びのメリハリがつかなかったらどうする!」ってことだと思うんですけど、そもそも本来「仕事」は「好きであること」の延長にあるもの(理想論かもしれませんが)と思っているので、メリハリ云々の前に好きなことならいくらでも出来るんじゃないかなと思うんですけど…。前提条件が違うんですよね。

 

「働くことは苦しいこと」という刷り込みが減っていったら、もっと楽に生きることができそうだなあ、と思います。

 

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東京で消耗するか?しないか?問題。

こんにちは、しろです。

 

東京で消耗するしないみたいな話は色々なブログを読んでいると割と議論されているところなんですが(要は「地方に移住したほうが良い!」とか「いやいや東京(都会)にいるほうが良い!」とか、はたまた「1回くらい消耗してえ」とか)、わたしも色々考えた結果、「そんなん好きにすりゃいいべ」と思うようになりました。

(まあもちろん、「移住する」or「移住しない」の議論をしている方々も、前提として「個人には多様な価値観がある」ということを踏まえてしているのだとは思いますが)

  

都会で消耗するかしないかは、個人の価値観による。

と言うのも、やっぱり東京(都会)にいることにはメリットもデメリットもあると思うから。要はその人個人が何に重きを置いているかで、東京が消耗する場所になるのかそれとも糧になる場所なのかは変わってくるわけで。だから一概に「移住しろ!」というのも違うと思うし、「移住すんな!」というのも違うと思う。色々な価値観があるわけだから、どっちも尊重すりゃいーじゃん、と(これもまたわたし個人の価値観でしかないし、違うと思う人もいると思うけど、それはそれ)。そうなると「1回くらい消耗してえ」は割と妥当な気もする(笑)「消耗する」という体験を通して得られることもあるかもしれないから。 

わたし個人は、どちらかと言えば東京から離れることにメリットを感じるタイプの人間だと思う。何故かと言うと、まず第一にわたしはトータル25年を海と山に囲まれて過ごしてきた女で(具体的に言うと、ずっと湘南〜三浦半島をうろついていた)、自然というものがそばにないとダメな人間だと、先日鎌倉に行ったときに深く感じたから。

 

shr0805.hatenablog.com

 

わたしが住んでいた湘南〜三浦半島は、近年こそ洒落た観光地化した扱いを受けているけれども、乱暴に言ってしまえば、海と山しかない片田舎です。都会で流行ったものが忘れ去られる頃にようやく降り立ってくるような場所だし(昔一緒に働いていた人に言わせると、「渋谷・新宿で流行ったものは3ヶ月から半年後に横浜にやってきて、それが消耗されつくされた1〜2年後に三浦半島にやってくる」らしい。妙に納得した)、それゆえ流行りのスポットとはどうしても縁遠くなる。若い頃(10代〜20代前半)は「流行に乗ることがすべて」だったのでそれに歯がゆい思いをしたものだけれども、この年齢になってようやく「流行とかクソどうでもいいな」という境地に達したので、流行りのものがないことに関しては特に問題を感じなくなった。海と山という、わたしを心から安堵させてくれるものが近くにあればそれでいい、と思えるようになってきた。

 

そして次に、わたしの「人とのつながり」が最も濃い場所が湘南〜三浦半島だから。「好きだ」と思える人がすぐ傍にいる、いつでも会えるというのは、安心感につながると思う。(別に東京に友達が全くいないわけじゃないけれど、どうにも疎遠になりがちになってしまった。元から狭い世界で生きることが好きなタチだったので、どうも東京での人間関係を上手く築くことができなかったというのもある。「緻密なコミュニケーション」が要求されがちな東京は、わたしの管理能力を大幅に超えているとすら思う)

 

それでも東京を離れない理由。

そこまで思うならさっさと東京から離れればいいじゃん、と思われるかもしれないけれど、前述した通り都会には都会のメリットがある。それは「好き」に触れやすい、ということ。今日のわたしのランチは都心にあるお気に入りのパン屋さんのパンだったのだけれど、この味は神奈川の片田舎じゃ味わえないなあ、と思う。そしてわたしはこの味をかなぐり捨てて東京から脱出する勇気は、今の所まだない。

 

あと、わたしは美術品を見ることが好きなのだけれど、海と山に囲まれた場所には、美術館や博物館が少ない。しかし東京となると、近い場所にたくさん美術館や博物館がある。上野公園だけで美術館何個あるんだよ状態であるし、六本木にだって美術館が密集している。その点に関してだけ、わたしは「もっと早く東京に住めたらなあ」と思っています。だって学生だと美術館とか安いんだもん。この「美術館や博物館が多い」というところも、わたしがまだ東京を捨てきれない理由の1つ。

 

東京のメリットとデメリットは表裏一体。

東京はあらゆる情報や価値観に生身で触れやすい。行動しようと思ったときに、すぐ触れられる距離にゴールがあることも多い。よって、行動することに躊躇いを感じなくなる=行動に対する瞬発力が鍛えられる。それは都会にいる最大のメリットだと思う。わたしは自然と同時に、この瞬発力も大切で愛している。もしかしたら、本当に東京を出られない理由はここにあるのかもしれないなー、とも思う。

 

しかしその価値観や情報の多さも、場合によってはデメリットになる。「自分の軸」がはっきりしていないと、ただひたすら振り回されて終わる結果になるから。それで余計なコストを支払うことにもなるかもしれないし、嫌な思いもたくさんするかもしれない。「それも総じて経験だ!」と割り切れるメンタルがあれば東京でもうまいことやっていけるのだと思う。わたしはメンタルが薄氷すぎるので、東京だと息がしづらいことも結構ある。(もちろん「経験だ!よかった!」と思える瞬間もある。単にそのときのメンタルによるのかもしれない)

 

わたしが本当に都会を出るときは、「消耗し尽くした」ときかもしれない。消耗し尽くした、と言うとマイナスイメージになっちゃうかな?正しくは、「東京にいることに満足し終えた」かもしれない。一通りの価値観に触れて、自分の「好き」をちゃんと確立できたとき。そのときは、神奈川の片田舎に戻りたいなと思う(できれば鎌倉が良い。古都と呼ばれる場所が総じて好きなので)。

 

ここまで書いておいて、「そもそも議論されている『消耗』の意味合いが違ったりして」と思ったのだけれども、まあそれもそれだよね!「消耗」って言葉の捉え方も人によって違うよね!(強引)ということでひとつ。

 

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