Shimple.

やりたいようにやるために、できる限りシンプルに生きたい。

「心の避難所」で、ゆっくりと息をすると世界が変わる。

こんにちは、しろです。

1日に1度やったことないことをやろうプロジェクトは継続中。

shr0805.hatenablog.com

そうだ、海行こう。

 
 
「自然に触れたい!!!!」という欲求に抗えず、会社員時代ぶりに5時半に起きて(会社員時代は満員電車が嫌で9時始業なのに7時に会社の最寄りに着くようにしてた…)、鎌倉へ。
 
突発的に何かをする!ということを今までやったことなかったんですが、衝動に任せて行ってみました。
 
案外、思い切ってやってみると気持ちが良い。思うように行動してると、心底満たされる感じがします。
 
そして生まれて初めて自分でグリーン車の手続きをして(ここも「やったことないこと」の1つ)、いそいそと乗り込んでみたり。
 
会社員時代は我慢してたんですけど、わたしは電車が本当に苦手で(あの閉鎖感が無理)。でも、グリーン車ならゆったりと過ごせるし良いかなと。乗ってみたら意外と混んでましたが(笑)、普通車両よりも全然マシな混み方で、意外となんとかなりました。これもやってみなきゃわからなかったことですねー。
 

いざ、鎌倉へ。

 
わたしは、実は生まれが鎌倉です(いた期間は短かったけど)。なので鎌倉は割と勝手知ったる街(鎌倉から引っ越した先も鎌倉に近かったし、親戚がたくさんいたので行く機会自体は結構ありました)。鎌倉駅で下車して、記憶を頼りにゆるりゆるりと由比ガ浜を目指して歩きました。
 
今回「自然」を求めたたのも事実なんですが、目的地を「鎌倉」にした理由は2つ。
 
1つ目は、最近自分が停滞してエネルギー不足だったのを自覚していたから、原点に立ち返ろうと思ったこと。
 
2つ目は、今観てるアニメ「覆面系ノイズ」の舞台が鎌倉だったこと(笑)
 
漫画も全巻読みましたが、おもしろかったです(既刊12巻)。鎌倉の街の再現性が高い。
 
 
最新刊は今月!楽しみ!
 
 
 
覆面系ノイズ」はバンド活動をする高校生たちの青春ラブストーリーなんですが、主人公・ニノが毎朝由比ガ浜で歌ってるという設定で、漫画の中にもちょいちょい海が出てくるんですね。それを見て、どうしても海が見たくなってしまって。(本当は朝焼けが見たかったんだけど、始発じゃどうにも朝焼けには間に合わなかったなー)
 
 

砂浜に残った足跡が、「生きていること」を教えてくれた。

 
 
 
滑川付近の階段から降りた場所の景色。
 
7割くらいは漫画につられて訪れた由比ガ浜でしたが、潮風と波の音がとても心地よかったです。砂浜をザクザク歩いて、海の音に耳をすませていると、なんだか自分の悩みや葛藤がとってもちっぽけなものに見える。
 
 
 
時折、自分の足跡を確かめて歩いたりして。うまく言えないんですが、足跡を見るたびに「ああ、わたしは生きてる」という思いがじんわりとこみ上げてきました。
 
今まで歩いてきた人生で、忘れてしまったことはたくさんある。でも、生きた証もちゃんと残ってる。わたしもどこかに足跡をしっかりつけてる。そんなようなことをぼんやりと感じながら、延々と海岸を歩いてました。
 
自然の包容力はすごいなあ、と思います。自然の中にいると五感の全てが刺激されて、部屋に閉じこもっているだけじゃわからないことがたくさん見えてくる。
 
太陽の熱は熱いなあとか、海の音って心をゆるませてくれるなあとか、ふわふわとした砂浜がまるで足を包み込んでくれるみたいだなあとか。潮の香りに懐かしさを覚えて少々ノスタルジーに浸りつつ、30分くらいぼんやりと歩き続けてました。
 
せっかく鎌倉に行って海だけなのもなんなので、ついでに極楽寺に寄って紫陽花を見てみたりなんかも。紫陽花はちょうどシーズンですしね。
 
 
 
 
儚げだけどしっかりと健気に咲いている紫陽花を見て、凛と生きる勇気が湧きました。極楽寺周辺は緑が多くて、呼吸をしていると全てがクリアになっていく感じがすごく良い。自然と人間は密接にリンクしているなあ、としみじみと思わされました。ビルや家ばっかりで緑が少ない場所にいると息が詰まるわけだ。
 
 
 

極楽寺駅周辺は、なんとなくジブリっぽいニオイを感じる気がする。というよりも、鎌倉の奥まった場所全体がジブリっぽいなあと思うんですよね。扇ガ谷のあたりとか、北鎌倉とか。自然が多いからでしょうか。

朝早く行きすぎて、店は微塵も開いてないし(そもそもカフェ以外買い物するような場所ってあんまりないんですよね鎌倉は。小町通だと観光客向けで色々売ってたりしますが)、江ノ電鎌倉駅に戻り、家族に頼まれたレーズンウィッチを買ってさっさと都内へ。

詰まったものはちゃんと抜く。


東京にいると、人が密集したりしてて「ウッ…」となることが多いんですが、エネルギーのチャージをした所為か、気分はとても晴れやかでした。

多分、持て余していた感情や閉塞感(停滞感)を、自分の原点にあった「海(自然)」に触れることできちんと抜ききったのが良かったのかな、と。

詰まったら、ちゃんと抜く。伸び伸びできる場所でゆっくり呼吸をすること。五感をしっかりと働かせて、「自分は生きている」と実感すること。それが人生を歩む上で大切なのかなあ、と思った小旅行(?)でした。

「心の避難所」を持つことで、人生は豊かになる。

もちろん、人によって伸び伸びできる場所は違うと思います。でも、誰にでもこういう「心の避難所」みたいなのはあるはず。息が詰まったときに思い切ってそこに逃げ込んでみると、今まで思いもしなかった視点から物事を見ることができるんじゃないかな。

実際、帰ってきたら「体は疲れてるけど心は元気!」みたいな状態になってたので、「ちょっと体を休めたらまたバリバリいろんなことやってみよう!」とやる気に満ち溢れてきました。今なら「やりたくねー」とうんざりしていた労働もこなせる(はず)。

よし。また1から頑張ろう。

 

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中の人「しろ」

自己紹介連絡先:shr0805@yahoo.co.jp

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【祝・100記事】100記事書いて改めて思ったこと。と、改めての自己紹介。

 



こんにちは、しろです。

めでたく(?)このブログも100記事達成です。最初は正直に言ってここまで続けられると思っていませんでした(というか初っ端の記事とか、1月に書いて次に書いてるの5月ですからね!!!!実質まだ1ヶ月しかやってないんですよね!!!!)

100記事書いて何が変わったかと言うと、自分の気の持ちようが変わった(自分の考え方をブログに書いていくだけで思考が整理されて、自分が「なぜシンプルに生きたいのか?」と考えるようになった)とか、わりと前向きになった(1点目の副産物)とか、「人間とは?」とか「生きる」とは?とかを考えるようになった(これも副産物)とか色々あるんですが、確実に言えるのは「自分のことを誰かが知ってくれているという安心感が生まれた」ということのような気がします。

自分をオープンにするということの安心感。


わたしは自分をさらけ出す(コミュニケーションをとる)ということが非常に苦手なんですが、文章だと思ったよりも割とすらすら書ける節があります。それはブログという匿名性がそうしているのか、それとも自分が文章というものを愛しているからなのかはわかりません。

しかし、こういう場所で自分をオープンにするということは本音を誰かに知ってもらえているということなわけで。しかも日々訪問してくださっている人(リピーターの方がいらっしゃることにもびっくりしています!ありがとうございます!)がそれをどういった形ではわからないですが受け止めていただけているわけで。そのことにすごくホッとしているというか、安心感を持っています。

というわけで(?)少しでもブログで興味を持っていただけたという人に、改めて自分のことを伝えたいという欲求が生じましたので、100記事突破を記念して(なんの記念だ?まあ自己満足と言えばそれまでですね!)、自己紹介など用意してみました。

shr0805.hatenablog.com



もし読んでいただけたら嬉しいなあと思います。


最後になりましたが、いつも読んでいただいている方、たまたま訪問してくださった方、本当にありがとうございます。

自分の感じたことや考えていること、好きなもの、好きなことをひたすら発信しているため、もしかしたら「シンプリスト」を掲げつつもその枠には入っていない状態かもしれません。

しかしあくまでわたしにとって「シンプリスト」は最終的なゴール(自分が目指す生き方)の名前であり、このブログはそれに至るまでの考え方やちょっとやってみたことなどの記録媒体に過ぎません。なので、もしかしたら「自分が求めていたブログとは違う!」という人もいらっしゃるかもしれません。それはそれで仕方のないことだと思います。わたしはやりたいようにやるだけですし(誰しもその権利はあると思うし)、人の価値観はそれぞれなので、誰がどう受け止めようとわたしにはそれをどうにかしようとする権利はありません。雑にまとめると「ま、お互い様だぜ!」といったところでしょうか。

でも、少しでもこのわたしの模索の日々が誰かの糧になればハッピーだなあと思います。






 

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「しろ」は何者?改めてご紹介。



こんにちは、しろです。

毎度この導入文で入るようにしているのですが、実際問題「しろって何者だよ?」と思われている方が少なからずいると思います(と信じています)。

ということで、改めて自己紹介をさせていただきます。

「しろ」は何者?


80年代ラスト、平成になってすぐの8月5日に神奈川県の県庁所在地で生まれたかと思いきや、それはたまたま自分が超絶未熟児(出生体重770gです!下手なステーキ肉より軽いですね!)だったから大病院で生まれただけに過ぎず、実際に生まれて育てられたのは、当時住居を構えていた神奈川県の片田舎(古都)です。5歳になる年に神奈川県のさらに片田舎(ヤンキーの生息地)で20年間ほど伸び伸びと育てられました。

高校まで。

小学校から私立で育てられました。私立=お上品な学校で育てられた と思われがちで周囲から(主に会社員時代の同僚に)「金持ちなんだろ!お上品なんだろ!」と思われがちですが、実際わたしの家は金持ちでもなんでもなく、父親はごく普通の公務員、母親も普通にパートに行くおばちゃんですので、ものすごーく一般的な家庭です。周囲も金持ちなんて一握りしかいません。(単純に片田舎すぎて教育費以外にお金かける場所がなかったのでは?と推測しています)

しかしこの私立のすごいところと言うのは常識にとらわれないというか、獣をそのまま放置しているような場所でした。

それどころか教師の中にも「授業より遊びがしたいから私学の教師になった」(公立よりカリキュラムに自由が利くらしい)とかいう輩がいるほどトリッキーな場所で、手綱を握る人間がそれなものだから割と致し方ないというか、自由すぎる発想を持つ生徒ばかりでした。その証拠に、授業中に自主的に飯盒炊爨してました。どう考えても頭が(良い方向に)イカれている。

実際、進学校のはずなのにわたしの知っている友人ほぼ全員が社会不適合者で一般的な企業に就職という発想を持たず、フリーもしくはフリーターもしくは個人事業主が圧倒的で、いかにこの学校で育った人間が「常識なんてクソだ!」と刷り込まれているかがわかります。ちなみにわたしもフリーで細々と生活しています。

しかしこの学校で育った経験は確実に今のわたしを形成していて、
・常識など微塵も役には立たない
・クリエイティブな発想をして初めて人は自由になれる
という考えに至ることができました。自分含め、周囲が「常識<クリエイティブに生きてやろうぜ人間」ばかりなので、今でもこの時代の友人と会うとホッとします。

ちなみにこの頃の影響で、口が物凄く悪くて未だに直ってません。基本的には元SM⚫︎Pの中⚫︎くんみたいな話し方だと思っていただいて構いません。

専門学校時代。

中学時代からファッション及び美容に興味を持ち始め、高校卒業後は美容の学校へ進学するものの、「人を飾り立てるより自分を飾り立てる方が楽しい」と思い、「自分がやりたいことってこれじゃなかったー!」と気がつき、卒業間近に退学。

ファッション好きが高じて、ひたすらアパレル店員をやっていたのもこの頃。

受験戦争へ。

思い立って専門学校を退学したものの、「このままだと中退で一生を終えるな!その前に何かドカンとかましてえな」と思い、「読書が好きだからひたすら文章に触れていたい」というトチ狂った理由で「文学」について学ぶために3ヶ月間必死こいて勉強。(という割に1日11時間くらい寝てたし、受験前日に突如思い立って「新世紀エヴァンゲリオン」を劇場版含め全話一気に観るとかいうバカなことをしていた。渚カヲルくんが好きです

「大学受験といえば予備校に通うべき!」という風潮に一石投じたくて(というのは真っ赤な嘘で、実際は受験勉強にそこまでお金かけられなかっただけです。金持ちじゃないんで。あと思い立ったのが遅すぎた!)、全て独学でやり通し、希望通り私大(正直に言います、レベルはMARCHです)の文学部に合格しました。

この経験からも、「世間の風潮なんて個人の努力と運でどうにでもなる。クソだ」と思いました。やる気になれば人間はなんでもできます。それはわたしが大学受験で経験した1つの教訓です。

大学時代。

大学に入って、思う存分文章に触れ、うっとりした毎日を過ごしていました。文学なので社会的には何の役にも立たない学問でしたが、「文章のためなら死んでもいい」というレベルには文章というものを愛しているので、別段気にしてませんでした。傍目から見たら金髪ヤンキーが源氏物語を熱中して読んでいるという感じだったので、絵面的にウケは狙えていたかと思います。でも意外にも文学部は一見普通なのに頭の中がやばい(いい意味で)人間が多かったので、もしかしたら自分が思っているよりもウケを狙えていなかったかもしれません。

ちなみにこの頃初めて京都に行き(トリッキーな教師どもの所為で修学旅行先が一般的な場所に定められることは終ぞなかった)、「京都」という場所に謎のインスピレーションを感じ、京都という場所が大好きになり、今では1シーズンに1度京都を訪れないと死ぬ病気にかかっています。始めに生まれ育ったのが古都だった所為もあり、静謐な空気を愛してやまないのかもしれません。

大学に入って3年後、東京都(とは名ばかりのど田舎)に越し、「この町は灰色だ…」という厨二病みたいなことを思いながら鬱々と過ごしています。ちなみに越してきて3年経ちますが、未だに同じ感想を抱いています。

この頃はアパレル店員(専門時代に引き続き)をやったり、おしゃれな空気に引き寄せられて雑貨屋(やってみたら別におしゃれじゃなかったけど、人間関係がめちゃくちゃ良くて楽しかった)で働いたりしていました。

あとは気が向いて短期バイトで、「大学にいるその辺のお兄ちゃんを適当な言葉でナンパする(※そしてアンケートを書かせる)」ということをしたりしました。「そこを歩いてるお兄ちゃんはどんな言葉で気をよくするだろうか?」という、業務関係にミジンコレベルも関係ないことを考えるのがひたすら楽しかったです。

会社員時代。

刷り込みで「何が何でも正社員として就職をしなければ!」と、この時だけなぜか常識にとらわれていて、しかしそのくせ一生懸命になれなかった(文章に携わりたかったのにマスコミ対策を怠って、ESは全通過なのに筆記で全落ちという偉業を成し遂げます。大学受験での教訓が全く生かされていない)結果次々に失敗し、心が折れかけたところでようやくある会社から内定通知をもらいます。(そういえばこの内定通知をもらったときも京都にいた)

正直に言って全く興味のなかった会社でしたが、「どうしても正社員になりたかった」のと「土日祝日を確実に休みにしたかった」(※小学校〜当時、めちゃめちゃのアイドルオタクだったので、何が何でもコンサートに行きたかった。そのためには土日祝日が確実に休みである必要があった)というクソみたいな理由で就職。

実際入社してみたら、「世の中はブラック会社ばかりというのは大嘘なのでは?」というほどに超絶ホワイト企業で、休みはとりやすい、直族の上司はめっちゃ良い人、人間関係は(深入りしなければ)全くもって問題ない、という三重苦ならぬ三重ハッピーでした。ただし業務に死ぬほど興味が持てなかった。ここは唯一にして最大の失敗だったなと思います。

そこで入社1年目、早速ストレスで体を壊しました。しかしそこで「何クソ!」と(また常識にとらわれて)「とりあえず働こう」(今思うとこれがあかん)という気持ちで3年続けました。

その結果、業務内容にやばいくらいのストレスを抱えたのにプラスして精神状態が不安定になり、プライベートで揉め事が起き人間関係(割と依存気味だった)に亀裂が入ったのをきっかけに、1年目のストレス性の病気が癒えないまま新たに心身ともに病みました。

毎日が暗く、何がなんだかわからない状態で泣き暮らし、人生に楽しみが見出せず、線路や道路を見れば「今ここに飛び込んだら全てを終えられる…」と考え、自分が死ぬことの想像しかできなくなり、夜な夜な発狂し、最終的に救急車で運ばれた段階で「このままだと自分は確実にやばい方向に進む、悪い意味で」と思って(とりあえず会社自体は好きだったので最低限の礼儀だけ通して)全てを放棄。

ちなみに会社員時代の上司もなかなかトリッキーな感性をお持ちで、わたしはこの上司がすごく好きだったし、今でも好きです。尊敬してます。

現在。

かねてより夢だった文章業で独立し、細々と生きています。そして会社員時代に気まぐれに立ち上げたブログ(今思えばある種のSOSから始めたのだと思う)を「とりあえず毎日更新して、自分が良いと思ったことやものを書き連ねていこう」と決め、今に至ります。

その中でも特に興味がある生き方が「シンプリスト」。個人的には、余計なモノ(物理的にも精神的にも)を削ぎ落とせば削ぎ落とすほど自分が見えてくると思っているので、まずはモノやノイズ全てを取っ払う「ミニマリスト化」したいと思っています。

そしてそのあとに残った「自分」が「良い!」と思うものやことだけを残し、最終的には「自分が生きてて心地よい状態」に持っていきたいと思っています。そうなるための考え方や行動を模索中(そしてブログに書き残し中)です。

人生で得た教訓。

客観的に見るとなかなか凄いアップダウンの激しい人生だな…と思いました。ここで得たわたしの教訓は5つ。

・人間やればなんでもできる
・(乱暴に言うと)常識はクソ
・やりたくないことをやっていても何の身にもならない
・他人に依存する「他人軸」で生きていると全てを失ったときに無に帰すので、「自分軸」で生きる方が良い(全てを失わないで済む)
・自分が「良い」と思うものに囲まれれば、人生は非常に豊かなものになる(はず)

まだ30年にも満たない人生ですが、結構学ぶところは多かったような気がします。これをブラッシュアップして、もっともっと自分にとっての「良い」人生を築き上げていきたいなあと思う次第です。

今後やっていきたいこと。

大枠だと、「自分の人生をより良くする」。これに尽きます。

「そのためにどうすればいいか?」「何が必要なのか?」は、今の所模索中ですが、今猛烈にやりたい!と思っていることは、

・文章を書き続ける
・たくさんの経験を積む
・会ったことのない人と会って色々な話をする

といったところです。

連絡先。

twitter:@shr008
mail:shr0805@yahoo.co.jp

この2つで大体連絡はとれます。

ブログを読んで「興味を持った!」という人が(もし)いらっしゃれば、是非ともお話ししてみたいと思っています。「会いたい!」という希望にも(フリーなので比較的時間がとりやすいので)応えられるかもしれません。



軽く自己紹介のつもりが思ったよりも長々としたものになってしまいました。(1時間くらい書いてた!)お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

 

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人生のハードルは想像よりも低い。

こんにちは、しろです。


「1日に1回やったことないことをやろうプロジェクト」をしよう、と決めて2日経ちましたが、「やったことないことには驚きが待っている」という仮説が真実味を帯び始めているなあと思いました。

 

shr0805.hatenablog.com


わたしが昨日やったことは2つ。(もうこの時点で1回じゃなくなってるけど、まあそれはいい)

自分の感情をさらけ出すことでリターンを得る。


1つは、どうしても「寂しい!寂しい!」という気持ちが抑えきれず、プライベートのtwitterで「寂しい!!!!誰かと話したい!!!!」と自分自身の感情をオープンにしてみたこと。

すると、普段関わりのないような友人たちまでがちょろちょろとアクションをとってくれて、「体調良いときにでもこっちにおいでよ」(地方在住者)と言ってくれたりとか、「この本読んでみるといいよ!」と自分なりのおすすめの本を教えてくれたりとか、「無理しないでね!」という言葉をかけてくれたりとか、とにかく色々な言葉で友人たちなりにわたしを支えようとしてくれました。

それがなんだか嬉しすぎてtwitterにまで投稿してしまった。


今までわたしは自分の感情をオープンにする(真のコミュニケーションをとる)ことが非常に苦手で、上辺だけで取り繕ったり愛想笑いを繰り返して「万人ウケする」態度ばかりとっていたのだけれども、感情をオープンにするだけでこんなにもリターンが来るのかと感動してしまいました。そして同時に「人のつながりで生かされてるなあ」と思って、そういえば人生は「人が生きる」とも書くけれど「人に生かされる」という書き方もするなあと思って、生きることはつまり生かされることなのだな、としみじみと感じたりしました。

この発言をするまで鬱々と「寂しい…寂しい…」となっていたのですが、オープンにしてリターンがあった瞬間になんだか寂しい気持ちさえ生きてる証拠!と思って楽しくなって、「寂しいイエエエエエエイ!寂しいのも割と悪くないな!!!!!」みたいな謎のテンションになってしまいました。寂しいのすら楽しかった。

ぶっちゃけてみると案外許される。

やってみたことのもう1つは、労働の先送りと辞退を申し出たこと。

わたしは「仕事(自分がやりたいと心を動かされること)」だけをやりたいと思いつつも「労働(「楽しくないなあ」と思いながらなんとなくやっていること)」をやっている部分が少なからずあります。いずれその比率も下げられたらと思いますが、今は契約途中のものもあるので(自分の価値観から)それらを投げっぱなしにすることができず、最低限ですがちょこちょことやっています。

 

shr0805.hatenablog.com



その労働に対して、会社員根性が抜けずに「なんとかスピーディに!」みたいな意識を取っ払えずにいたのですが、いくつか抱えている進行中の案件の中で2つに対して「精神状態的にどうしても今すぐできない!」というものが1つ、「なんかこれほんと微塵もやりたくねえな」というのが1つあって、思い切って延期と辞退を申し込みました。(「微塵もやりたくねえ」という方に関しては本契約前だったのもあって辞退を申し込めたというのもある)

どちらも自分の感情をそのまま垂れ流して、「というわけでちょっと延期させてください」「というわけでやっぱり辞退します」的な言葉で(もうちょっと丁寧な言葉遣いで)締めたのですが、案外あっさりと「いいですよ!無理しないで!」的な言葉を投げかけてもらえて、わたしはあっさり「すべてスピーディにやらねばならない思考」から自由になることができました。

「ああ、自分でこだわってただけで、案外あっさりと許されることもあるんだな…」とわたしは暫し呆然としつつ、許してもらえたことに感謝と(その許してくれた人に対する人間的な)愛情を覚えました。そして「やってること自体は労働かもしれないけど、この人い対しては『仕事』をしたい」と思いました。


人は案外、自分をオープンにしても拒絶されない。

今までは「自分をさらけ出したら嫌われるかも」と思う部分がどこかにあって、行動を起こすことにためらいを感じたりしていました。しかしそれを取っ払って、「相手が何を思っても仕方ない!だってそこはわたしがコントロールできることじゃないし!でも自分の行動は自分でコントロールできるから!やるしかない!」と思って一歩踏み出してみたら、自分が思ってるよりも人間はそれを拒絶しないというか、柔軟だし優しいし、それに生かされることで楽しくなれたり自由になれたりするんだなとこのプロジェクトで発見しました。

人は感情をオープンにすると楽しく自由になれる。だからもっと「自分軸」を突き詰めて進んでもいい。

わたしは新たな許しを得るような感覚を覚えて、もっともっとやれることはあるなあという謎の自信まで芽生えました。

恐怖はハードルに似ているなあ、と思います。しかしその目の前のハードルを飛び越えてみたら、想像よりも違う「案外いい景色」が見えることもあって、それを知るとハードルがあまり越えられないものには見えなくなってくる。次に出てくるハードルも越えられるような気がしてくる。

人生は意外と厳しいものではないのかもしれない。そう思います。




 

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希望は絶大な光であり癒しだ。

こんにちは、しろです。 


もともとの性格なのか、それとも心身を壊した経験があるからなのかは定かではないのですが、わたしは(原因がなくとも)突然パニックに陥ることがあります。

今日がまさにそれで、突然呼吸が苦しくなって叫びだしたくなり、動悸がバクバクとして「これは結構まじでやばいぞ」みたいな状態になり、プライベートのtwitterで苦し紛れに「動悸がやべえ、しんどい」みたいなことを婉曲的に呟いたら(数少ない)友人が心配してくれて、そしてTL上には彼女の子どものあどけない寝顔が載せられました。

それを見たらスーッと涙が落ちるのと同時に動悸もパニックも緩やかになって、「ああ、癒されるとはこういうことなのか」としみじみと感じました。

希望には人を癒す力がある。

なぜ、そんな現象が起きたのだろう?と考えたときに、「赤ちゃんには『希望』があるから癒す力があるんじゃないか」という答えにたどり着きました。

希望は一種の光だ。そして赤ん坊というのは、無限の希望=可能性に満ちている。世界がまだまだ広がっていく予感を感じさせる。

そのことにわたしは本能的なレベルで気がついて、それに癒しを感じたんだと思います。

希望を持つことで人はようやく生かされる。自分は何をしてもいい。自分は何を思ってもいい。まっさらで美しい赤ちゃんが、それを濁りきった大人に教えてくれたような気がします。

だからわたしも、一度死んで生まれ変わったような気持ちで、やりたいようにやって思うように生きていけば、なにかしらの道が開けるかもしれない。一般的な常識の枠からは外れたとしても、ある種それはオリジナリティーにつながるものになるかもしれないし(そうならないかもしれないけど)、もしかしたらそれが人生の何かを変えてくれるかもしれない。

可能性は希望だ。

かもしれない、という予測不可能な状態は、希望に満ち溢れている。人の想像力と創造力を駆り立ててくれる。それが人を生かしてくれるし、一瞬揺れたとしても自分の軸に引き戻してくれる。実際にわたしは今、未来への可能性という希望に生かされて、自分の軸に引き戻された。希望がこの世界にはある、ということを知って泣けるくらいには、わたしはまだ生きることを諦められないのだと実感しました。

そんなことを教えてくれた赤ちゃんに、今猛烈に頬ずりしたいです。



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「期待」なんて毒にしかならない。



こんにちは、しろです。

労働をしていると必ず発生する「コミュニケーション」。わたしは今、それにぶちあたっています。

わたしは接客業の経験もあるし、かつては営業をしていたこともあるので「愛想笑い」とか、「万人受する態度」をとることはできますが、それは真のコミュニケーション能力ではなく「人に振り回されることが得意」なだけに過ぎず、「それってただ精神を磨耗させているだけなのでは」と思います。

自分をさらけ出すこと=コミュニケーション


「じゃあ本当のコミュニケーションってなんだよ?」ってことになると思うんですが、本当のコミュニケーションは「惜しむことなく自分をオープンにして相手に接すること」なんじゃないかなあ、というのがここ最近考えていることで。自分がオープンに愛情を伝えれば相手にも伝わって、それが結果的に良い関係を築くことができるのだと思う。(そしてこれが相手に対する礼儀なんじゃないかとも考えてる。礼儀については前回の記事でちょっと触れてます)

shr0805.hatenablog.com

「期待している」という言葉は、「利益を生み出せよ」という圧力に聞こえる。

そして今ぶち当たっているコミュニケーション(と一般的に思われているもの)なんですが、最近ありがたいことに(労働で)「期待してる」と言われることが非常に多くて。

でもわたしはこの「期待している」という言葉が非常に苦手で、昔から「いやいやちょっと待って、期待とかすんなよ」となってしまうんですね。それはなんでだろうなあ、と思ったんですが、「相手が自分に有益なものをもたらしてくれる」という思惑が透けて見えることにうんざりするんじゃないかな、と気がつきました。

わたしも人間なので人並みに承認欲求はあるし、褒められれば嬉しいし「やったぜ!」みたいな気持ちにもなりますが、そこに「期待」という言葉を乗せられてしまうと一気にプレッシャーになる(我ながら面倒だと思ってます)。なんだか「俺の(わたしの)思う通りにやってくれよ!」みたいな圧力を感じて、「いやいやわたしは出せるもん出すだけですし、そこに勝手に利益を見出そうとすんなや!」っていう気持ちになってしまうんですね…。

多分「期待してるよ」と言われて嬉しい人って、「他人軸」で生きてる人が多いんじゃないかと思う。「言われた通りにやることが正しい」と他人の価値観に判断を委ねているから、「期待」という言葉で頑張れるのだと思うのですが、(幸なのか不幸なのかはわからないけれど)わたしはそういうものに対しては「抑圧されてんなあ」と思ってげんなりしてしまいます(出る杭は打たれる的な)。

自分がやったことが結果的に相手にとって利益になるのならばハッピーだし、やったねワーイ!となるんですが、初めから利益を期待されると「うへえ」となってしまうのが正直なところです。

だからわたしはこれからもやりたいようにやるし、結果として誰かがそれで満足してくれれば嬉しいなあくらいの気持ちで(期待を無視して)黙々と労働したり(なるべく減らしたいですけど)、ブログを書いたりしていこうと思っています。

「シンプリスト」とか「シンプルライフ」とか銘打ちながらも実践系の記事よりも考え方の記事が多いのもその辺が影響してるのかな…。(書きながら気がついた)

実践系はやりたいと思ってるのでそのうちやるんですけど、「やりたい!」「やってみたぜ!」というときに思い立ったようにアップするスタイルで行きたいと思っています。

なのでもしかしたら、「チッ、なんだこのブログ、期待したのとちげーじゃねーか!」みたいに思われる人も少なからずいらっしゃるかもしれないですが、そもそも誰かの期待に応えようと思って始めたブログではないので(自分の考えや行動をさらしていって、それが結果的に誰かに届いたり役立ったりしたらハッピーだなくらいの気持ちでやっているので)、ご了承いただければ嬉しいなあと思っております。


 

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他人の目を気にする努力をするくらいなら今を生きる努力をしたほうがいい。



こんにちは、しろです。

突然ですが、わたしは元々物凄くネガティブなタイプで(それでもこのところ色んなものの見方が変わって大分マシになってきたのですが)、なかなか過去のことを手放せないタイプです。

無意識にそれが現れるのか、このところ突然夢見が悪くなったり、ぐっすり眠れなくて早朝に目が覚めてしまうこともしばしばです。(流石に0時に寝て4時に起きたときは「まじか!」と思った)

「どうすればいいですかね〜」と専門家の人に相談したら、「事実をありのまま受け止めるといいですよ」と言われて目から鱗が落ちました。

他人の目を気にしてるとロクなことにならない。

ネガティブな人と言うのは、基本的に他人の目を気にしているのだと思います。わたしはブログでかなり偉そうに「自分軸を持つのが大切なのでは」と言いまくっていますが(最近になってようやく「自分軸」で少しずつ物事を考えられるようにはなってきたのは本当なんですけど)やっぱりまだふとした瞬間に「他人の目」を気にしてしまう瞬間があります。

20代半ばまでという長い間「他人の目」を意識して生きてきていたので、当然と言えば当然な気もするんですけど。長年培った習慣というのは、なかなかすぐに方向転換するようにはできていない。

そもそも幼い頃から「みんな」いう言葉を押し付けられ(特に日本社会はそのような傾向が強いのでは)、周囲に気を使え〜とか、常識が〜とか足並みを揃えろ〜とかいう言葉が氾濫しているので、まあ無理もない話ですが。

周囲に対する礼儀が大切なのは否定しないし、礼儀を知っているからこそ物事がスムーズに進んで結果的に世界の選択肢が広がるということが往々にしてあるので、最低限の礼儀は身につけていて損がないのは事実だと思う。

でもこの「礼儀」というのは、あくまで「好きな人にたいして、ありったけの愛情表現をする」(陳腐な言い回しになるけど)ことであり、過剰に自分を卑下したり、心を閉ざして愛想笑いしたり、欲求を閉じ込めたりするということとはまた別物なのではないかな…と、最近になって考えるようになりました。「この人はどう思うかな?」「こんなことを言って嫌われないかな?」ということばかり考えるようになると、結局人の目に依存した行動をするようになるし、周囲に振り回されて自分がすり減ってなくなっていくので、結果としてロクなことにはならない。これはわたしの実体験からもそう思います。

必要なのは抑圧じゃなくて開放なのだと思う。

元々を辿ると本当に小さな頃は「やりたいように」生きてきたはず。その時は毎日が楽しくて毎日がきらめいて、世界がどんどん広がるような気分になってワクワクしていた。

それが周囲の抑圧によってなりを潜めるようになって、結果「自分の好きなものがわからない…」「やりたいことってなんだろう…」と鬱々となって、心身を壊すことになりかねない(わたしはなりました)。そして最悪の場合は「生きてる意味なんてない」と死を選ぶ人もいるのだと思う。日本の自殺者は延々と増え続けているから、これはあながち間違っていないんじゃないかな。

そんな状況を打破するには、冒頭の通り事実をありのまま受け止めることが大切なのだと思う。例えば、人と向かい合って話している。自分が何を話そうとも、自分の言葉で相手の感情をコントロールすることはできない。人の感情は人の数だけあるから。その事実を受け止めるだけで、随分と気の持ちようが変わってくるんじゃないでしょうか。

そこで「あなたはそう思うのね、その価値観は受け止める。でもわたしはこう思う。わたしの価値観はこれだから」と「自分軸」で考えられるようになると、人と向き合って精神を磨耗する確率はかなり低くなる。自分の価値観も相手の価値観も受け止めて開放できるようになれば、物事はもっともっとスムーズに進むと思う。「自分の方が正しい」と価値観の押し付けが生まれるから、物事がこじれて抑圧が生まれる。

ありのままがダメなんてことはない。

抑圧と言えば、わたしは幼い頃(多分4歳くらいだと思う)、突然(本当に何の脈絡もなかった)「嫌い」と言われたことがあります。今思うと身に覚えがなさすぎて「なんのこっちゃ!」となるのですが、もう25年近く経つのに未だに覚えているのは、多分その時初めて「嫌いだ」と言われたことで自分の行動が制限されるようになった(抑圧された)からだと思います。「ありのままじゃダメなんだ」と思って、「嫌われないように」愛想笑いをする日々が始まるようになりました。

そのことを最近になって思い出して、事実だけを受け止めることにしました。「嫌いだ」と言われたのは、その子の価値観がわたしの価値観と一致してなかったから。ただそれだけなんです。ただそれだけのことなのに、わたしはなぜか「嫌われるのはいけないことだ」と思い込んで、自分を開放するのをやめてしまいました。それが大人になっても影響して、色々なことの奥底にそれが燻っていたような気がする。わたしが心身を壊したのはそのことが直接の結果じゃないけれど、わたしが今まで選択していたことの根源にはその出来事(というよりも、その出来事を通して「嫌われちゃいけない」と思ったこと)の影響がないとは言い切れない。

つらつら書きましたが、別に自分のことを「嫌い」と言い放った人を恨んでいるわけでも、「全部お前のせいだ!」と思っているわけでもありません。乱暴に言えば心底どうでもいいと思っています。それは多分、自分が「自分軸」で物事を考えられるようになってきたからではないかと思う。自分の考えは自分の考えでいいし、相手の考えは相手の考えでいい。どうせ人なんてコントロールできないんだから、自分は自分の思った通りに、やりたいようにやればいい。雑にまとめると「ありのまま」で生きていったって別に良い。ダメなんてことはない。それで誰が何を思おうと、それはその人の勝手なのだから、自分の領域ではない。自分の領域でないことに振り回されても仕方がない。それにもう少し早く気づいておけばよかったなーというだけです。

明日死ぬなら、今何をすべきか。


何事に於いても、他人に振り回されるって、1番身にならない時間の使い方だと思います。自分の時間はあくまでも自分だけのもので、しかも時間は有限です。お金は増やすことができるけど、時間は溜め込んだり増やすことができない。それだったらわたしは自分の時間を全部自分のために使いたい。明日死んでも後悔しないように「今持ってる時間」を使うことができれば、人生の充実度というか幸福感は桁違いになるんじゃないかな。

「自分軸」は自分の一生のテーマになりそうです。そう思うとなんだかワクワクしちゃうな!「自分軸」で考えると掘り下げられることがたくさんありそうです。

 

読んだよ〜の一言で頑張れますので、よろしければ…!

  

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